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目を閉じて、ほんの少しの間耳を澄ましていると、体の中から様々な音が絶えまなく生まれていることに気が付く。呼吸や脈拍、そして、首、腰、腕、手足、内蔵のちょっとした動きによる音など。

手のひらを胸にそっと当てると、手のひら全体からも温かな身体の響きが次第に鮮明に聴こえてくる。 その音は本当に温かく、子どものころに感じた母の温もりさえも想い出させる。  
  その音は、ただ単に全体の一部ではなく、全体を形成するためになくてはならないエレメントとして在り、音を発していることは、いわば生命行為そのものだと感じる。
  何か美しいものを見たり、聴いたり、美味しい料理を食べたり、想い出深いものを触ったり、よい香を嗅いだりした時、「ああ、生きていたら母にも・・・」と、生前はあまり無かったことだが、いや、あったとしてもこんなに鮮明ではなかったのだが、年が経つごとに亡き母の思い出が強くなっていく。

不思議なものだ。

演奏という行為が常にそうであるように、音は、発せられ、聴かれ、感じられ、そして消えていく。消えていくからこそ、音は、鮮明により確かな実在として繰り返しきこえてくるのだろう。人の「生」も、この「音」の様に、消えるからこそ、より鮮明に確かな実在として、繰り返し心に浮かんでくるのだろう。  

ところで、人の体から発せられている最もはっきりした音は「声」。「声」は、「うた」や「ことば」となっていく。一言で「うた」と言っても、そこには「歌、唄、謡、唱、吟、詠、詩...」と、実に様々な「うた」と「うたいかた」がある。そして、人の声は歴史のなかで人々が作ってきた様々な楽器の母とも言えよう。

三島由紀夫が石笛(いわぶえ)の音を聴いた時、「石笛の音を聴いたことの無い者にはわかるまいが、心魂をゆるがすような神々しい響きを持っている。清澄そのものかと思うと、その底に玉のような温かい不透明な澱みがある。肺腑を貫く・・」(『英霊の声』)と描き、音をしっかり心の目で見つめていた。

言葉での音の表現は他に、「音は空へのぼらないで地を低くはっている」(高見順『如何なる星の下に』)、「綿で包んだような音」(梶井基次郎『城のある町にて』)と、限りがない。もうすこし単純なところで、オノマトペがある。
「ころっ、ころん、ころり、ころころ、ころんころん、ころりんこ、・・」これらは、同じ「ころ」でも全て違った状態を表していて、その微妙さが面白い。「ごろ」となるとまたその表情が異なり同様に面白い。

まだ言葉にならない「あ」という一声は、驚き、悲しみ、落胆、怨み、怒り、戦き、恐れ、嘆き、喜び等々、様々な表情に表現できる。そこには限りない即興性が潜んでいる。五線譜に書かれた一つの音符の中に潜んでいる即興性もこの一文字の「あ」と同様に限りない即興性が潜んでいるのである。  

五感はみな心の中で一点にクロスしていて、その時の直感で創造行為の母体となるものが動き、音が生まれ出るように思う。人は五感で音をとらえ、直感で音を発している。となると「音を発する」ことは生命行為であり、「生きる」と言うことは、そのまま創造行為そのものだということになる。

西欧中世の音楽の概念を借りれば、実際に聴くことのできる音楽、ムシカ・インストルメンタリス(道具の音楽)を通して、実際には耳に聴こえてこないムシカ・ムンダナ(天体の音楽)や、ムシカ・フマーナ(人間の音楽)を聴くことができるように、そこには実際に聴こえてくる音を通して、実際には聴こえない音を聴く事ができる時空が存在する。偶然、これは中国の天籟、地籟、人籟を説いた礼楽思想にも通じている。それはちょうど美術作品において、実際に見える作品を通じて、実際には見えないものが見えてくることに似ている。だからこそ人の心が動くのだろう。

天籟地響、「生」としての音を発し、音を感じ、音で遊び、音をつくり、音を表現することは、生命行為そのものであると同時に、創造行為そのものでもある。
そして、古今東西、音は人になり、人は音になる。  

教育と言う行為もまた創造行為そのものであると思う。よく言われている「創造的教育」という概念ではなく、「教育は創造そのものなり」と言える。音楽教育はたとえそこに綿密な指導案があったにせよ、教師と生徒が未知なるものをつくりあげていくことの連続なのだから。

音楽教育とは、「生」としての音を発し、音を感じ、音で遊び、音をつくり、音を表現することの喜びや感動を子どもと共有し、子どもの持つ様々な創造行為の母体を芽生えさせ、育んでいくことと言えよう。また、このような教育を通してこそ、私たち自身にも同様に、限りない創造の母体が潜んでいることを知ることができると思う。そして、それが人それぞれ自身の生への喜びへと再びつながっていくようにも思える。

音を発することは生命行為そのものであると同時に、生きることは創造行為そのものでもある。

やはり、音は人になり、人は音になる。

教育じほう '94/1No.552 より
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