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1.師匠から教わったこと 〜「何故か」を知りなさい〜 キャラクター

「Mino! 何故そこをそのように表現するんだ?」と師匠のニコラウス・アーノンクー ルから、レッスンの時たびたび質問された。当時ぼくはMinoruという名前からMinoと 呼ばれていた。「この曲を作曲した頃のテレマンは、彼がフランスへの旅行中にいろ いろな民族音楽を耳にして、とくにジプシーの音楽の新鮮な響きを書きとめた… そ んなイメージはどうだろう?」と師は語る。しかし、「Minoがどうしてもそう表現し たければ、それはだれも邪魔はできない。」ともアドヴァイスされた。 何度かのレッスンの後、気がついたことは、「何故かを知る」ことで「基礎」が培え ることである。

例えばメヌエットは3拍子で書かれているが、2小節単位の6拍のステップで踊られ る。メヌエットの語源は「小さなステップ」であり、1拍目は床を踏む動きでは無 く、つま先立ちする上への動きのステップである。そのため、そこにはその動きに相 応しい音表現が必要となる。フレージングとアーティキュレーションも自然に生まれ 出る。時代とともに実際に踊ることを想定していないメヌエットが作曲されるように なったが、メヌエットのキャラクター表現の内在なしにメヌエットはメヌエットには ならない。無論、テンポも自然に決まってくる。 それ以来ぼくは、自分自身の演奏に常に「何故か」と問うようにしている。答えのな いものも多いが…。
2.師匠から教わったこと 〜「何故か」を知りなさい〜 テンポと情緒

テンポと言えば、イタリア語辞典で語源を調べると、Adagioは注意深く慎重に静かな 「ゆっくりと」を意味している。Largoは幅のある広く大きく豊かな「ゆっくり と」、Lentoは遅く緩慢でゆったりした時間の「ゆっくりと」、Graveは重圧があり苦 しみ悩む深刻な感じの「ゆっくりと」となる。これらのテンポを表示する言葉はもと もと情緒を表現する言葉であり、同じ「ゆっくりと」でもそれぞれ微妙に意味合いが 違う。

このように、「何故かを知る」ことは、演奏表現の「基礎」を養うことにつながる。 そして、技術的な側面だけではなく「何故そうするのか」を考え、愛情と忍耐をもっ て楽曲に内在するものを発見し、広く奥深く探求しながら引き出し、実りある音にし ていくことが演奏の醍醐味である。しかし、答えの無い疑問もある。その疑問を忘れ ないでずっと持ち続けていると、ちょっとしたきっかけで答えが見つかる時がある。 その瞬間が、音楽する喜びになっていく。大切なことは、諦めないこと、思い考え続 けることである。
3.師匠から教わったこと 〜1個の音符の中の即興性〜 音楽は言葉のないドラマ だ!

『カルミナ・ブラーナ』…  ぼくはこの作曲家であるカール・オルフの研究所の2 年コースに在籍し、師の音楽と音楽教育について研究した。  音と言葉と身体の動きが三位一体となり、五感を通じて音楽を表現する音楽教育が 研究テーマだった。修了論文は、ヘルダーリンやハイデッガーの理論とオルフの理論 の共通点を論じた。この哲学的なアプローチは、担当教官のDr.レーグナーに声をあ げて笑われた。音を書きとめる記号の文字と音符の共通点を論じたり、音符は表音文 字と同時に表意文字でありその効果を利用した作曲様式があることなどを取り上げた りもした。

演劇台本のセリフに、「あ」という文字が書かれていたら、役者は、その「あ」は驚 きであるのか、悲しみであるのか、喜びであるのか、嘲りであるのか、痛みであるの か、その場面にふさわしい「あ」を感じて、「あ」の一言を声に出す。それは楽譜に おける1つの四分音符を表現するのと同じことと言える。つまり、たった1つの四分 音符の中に多くの即興性が潜んでいるのである。「演奏」を漢字では「演じて奏で る」と書くように、楽譜を読んで音表現する演奏家は台本を読んで音表現する役者に 近い。即興というとメロディの即興をイメージするが、たった1つの音符の中にも限 りない即興性がある。

師事していた4年間、ニコラウス・アーノンクールは、「音楽は言葉のないドラマ だ!」と言い続けていた。音符に内在する即興性も音楽する喜びの一つである。
4.師匠から教わったこと 〜リハーサルについて〜 下稽古

本番の休憩時間に、「リハーサルと違う!」と一緒に演奏した弟子から批判的に言わ れたことがある。これには、驚いた…。

リハーサルとは、本番で演奏する内容の打ち合わせである。邦楽では、リハーサルの ことを「申し合わせ」と言い、だいたいの骨組みを申し合わせることを言う。英語の 辞書に記述してあるように、リハーサルrehearsalは「下稽古、予行演習」である。 音楽の演奏は、あくまで舞台の上で創りあげるものであり、予行演習や下稽古をその まま舞台で演奏することではない。つまり、リハーサルと同じことを本番で演奏する ことは、下稽古をそのまま本番で演奏することであり、聴きに来てくださった皆様に とってこんなひどい話はない。演奏する会場の音響や雰囲気でテンポも表現の大きさ も自然に変わる。画家が一度描いたタッチを描き直すように、音楽も舞台の上で描き 直すことは多々ある。先日、ベルリンフィルの5人の楽団員と一緒にコンサートを 行った。本番では、ソリストであったぼくの演奏するアーティキュレーションや装飾 の微妙な表現の違いに対して、楽しみながら瞬時に応じていた。積極的に表現しなが ら、コンサートマスターの微妙な表現の違いに瞬時に合わせるオーケストラ団員は、 こうした環境によく慣れている。演奏は舞台上でその瞬間に共に創りあげていくもの である。偶然にも、ヴァイオリンのロマーノ・トマシーニとヴィオラのヴォルフガン グ・ターリツは、ベルリンフィルに入団する前にぼくのフルートの師であるツァンガ レと同じオーケストラに在席し、特にフランス作品について教わったとのことだっ た。ドイツ語ではリハーサルをプローベ(Probe=試し・下稽古)と言う。ツァンガ レは「プローベはプローベ、本番は本番(Spiel=演奏・遊び)」とよく言ってい た。この数奇な出会いに皆で驚き、心の底から大声で笑った。 志を一つにするものはきっとどこかで出会うことになっているのであろう。
5.師匠から教わったこと 〜息について〜 ベルカント奏法!

毎週のレッスンが苦痛だった。ぼくのリコーダーの師匠、フェリチタス・ケールドル ファーの最初のレッスンから2ヶ月間、頬を膨らまして「ため息」のようにまず自然 に息を吐く練習をさせられた。いつになったら曲を吹かせてもらえるのだろう…と 思っていた。

もちろんリコーダーで自然な呼気を音にする練習であることは解っていた。フェリチ タスの師匠はフランス・ブリュッヘンで、彼女もブリュッヘンのところで最初に「た め息」のレッスンを受けていたため、同じことをぼくにも教えたのだった。 日本でフルートを専攻したぼくは、常にヴィブラートを付けて吹いていた。このヴィ ブラートをとるために毎回フーフーとやるのかと思っていた。おかげでヴィブラート は自然に無くなった。

ブリュッヘンは年に何度かザルツブルクやミュンヘンへ演奏に来た。その時はいつも 夕食を一緒にした。ブリュッヘンもリコーダーでヴィブラートをつけて演奏していた が、レオンハルトやアーノンクールと演奏を共にしてオーセンティックな演奏習慣で あるノンヴィブラートの必要性を感じ、ヴィブラートを取るために自分でこの「ため 息」の練習をしたとのことだった。  しかし、この練習は単にヴィブラートを取るだけの練習ではなかった。頬を膨らませ て演奏するブリュッヘンの演奏法が不思議だったが、彼と酒を飲みながら話している 途中でハッと気付いた。

自然な呼気をそのままウィンドウェイに吹き込むとかなり強い音になる。ぼくたちは リコーダーを吹くための十分すぎる息の量を持っていることが解る。何度もフーフー と繰り返すと、うるさい騒音のため徐々に身体とリコーダーの息圧のバランスを取る ようになる。一度に息が出ないようするために歌をうたう時と同じような喉や身体の 状態をつくり、吹き込まないことで、安定した息圧と音程が得られるようになる。さ らに、身体にリコーダーの音が共鳴していく。このことに気付いてから、これを「ベ ルカント唱法」の名をもじって「ベルカント奏法」と自分で名付けた。 つまり、この練習はヴィブラートを取るためでもあったが、同時に、リコーダーの音 を身体に共鳴させる音づくりの基本的な練習でもあり、バックプレッシャーをエアー チャンバーに響かせるためのものであった。「息」と言う字を「自」分の「心」と書 くように、その音は、声と同様にその人だけが持つ音となる。そして、率直に「自分 の心」の音が身体と身体に触れた空気に響きわたっていく。
2012年4月
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