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Q---小、中学生の音楽の授業でだれもが手にしたことのある楽器「リコーダー」。吉澤さんがそのリコーダーを学ぼうと思われたきっかけはどんなものだったのでしょうか。 リコーダーの魅力についても合わせてお答え下さい。

武蔵野音楽大学3年の春、オーディオルオームでフランス・ブリュッヘンの「イタリアン・グラウンド」を偶然聴いて涙が溢れ、何度も何度も聴きなおしては涙溢れたことがきっかけだと思います。そして、リコーダーを独学で練習し、4年時に大学でリコーダー・アンサンブル・クラブを設立しました。  

当時、音楽教師を志望していましたので大学卒業後、すぐザルツブルクのオルフ・インスティテュートで教育の研究をしました。一年後、ザルツブルク・モーツァルテウム音楽大学にリコーダー科が新設されることになり、ケールドルファー教授に勧められて第一期生として入学しました。受験したのは私一人だけでした。そして、ニコラウス・アーノンクール教授の古楽演奏法学科を聴講したところ、たいへん面白く、さっそく主科として4年間学びました。アーノンクール教授から学んだことはその後の研究や演奏の基礎になっています。
Q---リコーダーで演奏される「古楽」とはどんな音楽でしょうか。
近現代の音楽との違い、面白さについて教えていただきたいと思います。

古楽は20世紀に入ってからその演奏法や修辞法、調律法、楽器などについての研究が盛んになり、その時代は前衛音楽avant-gardeと平行していたと思います。私はオーストリア・現代音楽アンサンブルとザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団にフルート奏者として所属し、現代作品のラジオ番組の為にORF(オーストリア国営放送局)で2週に1度は新作を録音していました。また、ザルツブルク・ドームのミサで現代曲のミサもあり、合唱とフルートとチェロだけの作品などを演奏していました。日本人である私は、オーケストラでヨーロッパ音楽を演奏する時、必ず日本人である事のコンプレックスを感じていたのですが、現代作品を演奏する時は何故か、心が解き放たれて自由に演奏でき居心地よく感じていました。  

アーノンクールのレッスンで古楽作品を演奏する時も、まるで現代曲を演奏するように 自由に心が開放されるのでした。私にとって「古楽」は「現代音楽」と同様に新鮮であり、アヴァンギャルドなことだったように思えます。昔の演奏法が研究され、そのころの絵画や文学、舞踏、宗教、生活や習慣などが理解できるようになった現代だからこそ古楽が演奏できるわけです。ですから、私にとって「古楽」=「現代音楽」といえるのでしょう。  

楽器は「楽」の「器」と書きますように、その楽器の為に作曲された作品は、その楽器で演奏することが最も障害の無い方法と言えます。日本茶は日本茶碗、コーヒーはコーヒーカップ、和食は和食器、洋食は洋食器、しかもフランスのものはフランスの食器、イタリアはイタリアの食器が一番その味が表現しやすいと言えましょう。また、茶道の様々な作法の中にその時代の文化が凝縮されているように、音楽も当時の演奏法、調律法、音空間で当時の響きを生み出すことから始めることが、もっとも障害が少ない演奏法と考えられます。  

音楽は楕円と似ています。楕円は中心点が二つあり、その1つの点は作曲家であり、もう1つの点は演奏家だと仮定して下さい。作曲家と演奏家の2つの点が限りなく近づき円のように1つの点になることを理想として、音楽の欲するままに音を発し、自分自身を無にして演奏すればするほど、自我がくっきりと出てしまいます。不思議なことです。  

空間に生まれ消えていく音楽の存在の仕方は、おそらく、生命あるもの全てのように「消えるからこそ、その実存が鮮明になる」のでないかと思います。  

音楽を人類の歴史として長いスタンスで考えますと、「古楽」という言葉は20世紀の産物であり、21世紀の現代においてはもうそろそろ必要無いと考えています。日本の音楽大学で「古楽器科」があることさえ21世紀の今日、滑稽に思えます。私の学んだモーツァルテウム音楽大学ではすでに30年前からリコーダー科、フルート科、チェンバロ科・・・と並列で、音楽表現法として全ての楽器のために古楽演奏法学科が設けられていました。音楽の元では、皆平等だと思うのです。
Q---これまで桐生、あるいは群馬での演奏会の経験はありますか。

文化庁と群馬県や各市町村教育委員会の事業で、山間の演奏会場が近くになく演奏会が行けない数多くの小中学校で演奏しました。その時に聴いたことのある方も、いらっしゃるのではないかと思います。
Q---ヴィオラ・ダ・ガンバの福沢宏さん、チェンバロ奏者の芝崎久美子さんと の共演で行われる桐生でのコンサート。その聴きどころを教えてください。

ステージ上で、その時生まれる即興衝動でお互いが感化されて演奏するため、 そこに生まれ出る響きは、二度と聴く事ができないものです。演奏する者にとっても1回きりの音象が心象として残されていくことになると思います。  

メロディーを受け持つリコーダーは、通奏されるヴィオラ・ダ・ガンバと対話し、その間を取り持つチェンバロは、数字付き低音(ジャスでいうコード記号に類似)で即興して、様々な言葉の無い、言葉になる前のドラマやポエムを生成させていきます。また、共感覚として考えますと、立体的な空気のキャンバスに、次々にフレーズを描き、空間の色彩を変えていく音空間を、心の目で観ながら聴き、「楽興の時」を共に過ごす事ができたら幸せに思います。鑑賞とは追創造ではなく、聴いて何かを生み出す創造行為そのものなのだと思うのです。  

中世では吟遊詩人たちが愛を歌い、ルネサンス、バロック、そして、現代まで、人々は、哀しみや喜びをリコーダーの音に託してきました。長い間、人の歴史と共に歩んできたこの笛は、人と音楽の様々な関わり合いを私達に伝えてくれます。ダウランド、モーリー、オトテール、テレマン、ヘンデル、バッハ、ヴィヴァルディ他、多くの作曲家達がこの笛の為に多様な作品を残したことは、この笛の持つ魅力ゆえなのでしょう。ピュタゴラスは、「音楽」は宇宙の調和を内包していると考え、中世において「音楽」は、「天体の音楽」、「人間の音楽」、「道具の音楽」と分類されていました。実際に耳に聴こえる音楽は「道具の音楽」だけです。「論語」においての孔子の音楽観も同様に、現在より広い意味で「音楽」をとらえていました。

人間存在の根源にまで思いを馳せた人々の音楽観に触れ、その時代を共に歩んできた笛の音を聴き、また、実際に聴こえる音を通じて、実際には聴こえない音を聴くことで、「音楽」は、単に「音を楽しむ」ものではなく、「生きる力」を与えてくれるものだと思います。
2007年10月
桐生での演奏会前の新聞社インタビュー;原稿

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